早春雑感

岩手は桜が散り始め、北のほうではこれから咲くところで、
いまが早春である。
宮城以南はとっくに葉桜で、今年はえらく差が大きい。

この数日の盛岡は寒く、雨が降っている。
これで今年の桜も終わるだろう。

今年もまた、現場の進行が季節に合わなかった。
暖かくなりだして、花がひらき始める頃を
まったく意識せずに通り過ぎてしまった。
もったいないことである。

仕事が落ち着いて、ものすごく温泉に行きたい。
最近は、ごく自然に「湯治」として頭に浮かぶ。
発想が初老である。

家族が起き出す前、明け方にランニングして、
ちょっとヨガをして、それから起き出してきた家族に
おはよーと挨拶して、という暮らしをしている人がいる。
毎日じゃないですよう、とのことだったが、
たまのことでも充分に凄い。驚嘆する。

忙しい、疲れたと言い訳して、時間が取れても
ごろごろしているようでは体力が落ち、
体力がないから運動も出来ないし疲れやすい。
地獄の悪循環に入っている。これはまずい。

そういう危機感が以前とはだいぶ違う。
なんとかせねばならない。
と去年も言っていた気がするので非常にまずい。
さしあたり、筋肉体操をおこなう。


ノートルダム大聖堂が燃えた。

ちょうど10年前に見に行っていた。
薔薇窓も尖塔も側廊も金物などのディテールも美しく、
静謐で素晴らしかった。

印象に残ったのは聖ドニのレリーフだった。

焼け跡の大聖堂内部が、ゲームの舞台になっている
教会の廃墟のようで、日の射し方が荘厳で美しいと、
フランスの新聞かなにかが写真をウェブで公開した。
画像を見てみて、言いたいことはよくわかった。

でも僕個人は、その焼けた跡を美しいとは感じなかった。
ゲームを低く見る気持ちはない。
最近のゲームはCG技術が尋常ではないので、
美しさの表現も映画を超えるときがある。
火災は悲劇なのに不謹慎だ、という感情はもっとない。

単純に、価値観の違いだと思う。

西洋の教会は、礼拝で満員になっているときに
もっとも美しく見える、と書いていた作家がいる。
時季はずれで人の少なかった堂内で、その言葉を
何度も何度も考えたことを思い出した。

建物が美しいことと、空間が美しいことは確かに違う。
フランスから帰って、自分の設計がいちばん変わったと
実感したのはそこだった。

住宅を新築したとき、人が住む前が一番住宅が美しいときだ、
と、その住宅の設計者が言ったのを聞いたことがあった。
髪の毛ひとすじほどの共感も持てない。

人の暮らす姿を否定的にしか感じないなら、
オブジェでも作っていればいい。
建物は、使ってなんぼの道具である。
芸術的と言っていいぐらい美しい建物は確かにあるが、
それでも建築は芸術ではない。

パリ市民の多くが従前の姿を大事に修復を望んでいるそうだが、
それは美しいものを見ていたいからではなく、
自分たちの大事な場所だからだ。
大聖堂には観光客だけでなく、ごく自然に祈る人がいた。

できるだけ早く、大事に修復されると良い、と思った。